河合村
書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)             東安居公民館
白山神社(中角)
昔三国街道に架けてあつた橋の下に夜になると光輝がさしたので、里人は怖れて近づくものはなかつた。偶々一人の僧が此の話を聞いて、翌朝其の橋の下に行つて探つて見ると一つの御神体のあつた上の橋の名もそれからは毫光橋(ごくわうばし)と改めた。
乙部屋敷の夜泣石(中角)
朝倉家の乙部勘解由(おとべかげゆ)左衛門の屋敷跡が中角の西方字多知にある。ここに庭石であつたといふ大石が残つている。この石を同区の光福寺境内へ運んだら、毎夜泣聲を出したので又元のところへ運び還した。
中角渡(中角)
舟橋から中角に至る九頭竜川には中角渡と称して舟渡しがあつて舟橋新の者が渡守であつた。古くは崩(くづる)の両所の渡とも呼びナカスミといつたのを何時の頃よりかナカツノといふ様になつた。此辺は天正の一揆の騒ぎの頃は古戦場となつたところで、舊幕時代には大砲の試射をも行つた。明治七年から舟渡しがやんで木橋となつた。
舊三国街道
大字高屋、山室の西方に民家近くの地下五六尺の所に幅二間許りで南北に長く続いた砂利道の跡がある。これは舊三国街道で、昔は中角、高屋、山室及二日市を経て坂井郡春江村の安澤に行つたのであると。
巻の堂(山室)
山室の巻垣(まきがいち)内に在うつて産土神として祀つている。昔宇多天皇の寛平年中に平泉寺の僧が夢の告によつて一つの神像を九頭竜川に投げた。この像は流れ流れてこの山室の淵に逗まり三日三夜の間靈妙な光明を放つた。里人は不思議に思つて拾ひ上げて見ると御神像であつたのでこれを祀つた。其の堂が即ち巻の堂である。御神像の逗まられた淵は神巻淵といひ今は山室の一地名となつているが古は河岸であつたのであらう。巻の堂に祀つた御神像は其の神慮に適はないことを告げられたので新に堂を建てて祀つた。これを取立堂といつた。後に御神像を森田村の八重巻に移し奉つた。
岡田が淵(山室)
山室の西、九頭竜川との間に岡田が淵と呼ぶ淵があつた。今はその跡を存するのみであるが昔は三つに分れていた。
矢放神社(河合鷲塚)
昔この辺は沼で其の小高い所に一つの欝蒼とした老槻があつたが悄に荒鷲が巣を営んで、角鹿(つぬが)から能登に通行する旅人に害を加へた。時に天から大己貴命(おほなむち)が天降りまして此の荒鷲を射止められたので其の大木の下に鶯を埋んで鷲塚と称した。此がこの区の名の起りである。後に里人は大己貴命を祀つて矢放(やはなし)大明神と崇めた。
今も神社境内に塚の形があつて土地が高く丘の如くなつてをり、後に新田義貞はこの境内に假砦(とりで)を作つた。又この境内に墓石の破片があるのは空也上人の古墳であらう。
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